半蔵×兼続
後編C
とても、暗い夜だった。
兼続は誰かに背負われて、暗い夜道を急いでいた。自分を背負っているのは、男、らしい。顔は見えないが、しなやかな筋肉をまとった背中は逞しく、女一人の重みをものともせず、軽々と夜道を行く。そう、兼続は女物の、美しい薄紅色の小袖を着ていた。’与六‘の名をもらった時から、兼続が女子の着物を着た事など一度もない。今日、初めて着たのだ。この人の為に。兼続は安心しきって、強い背中に身を預けていた。
深夜の川辺を走り抜ける。闇の中、何かがちらつく。兼続は、それが気になった。
「なに、あれは?…白玉かしら」
― 何を馬鹿な事を…’かしら‘などと気取って ―
自分のすました言葉に苦笑する。
「馬鹿、露だ」
― ほら、呆れられた。でも、返事をしてくれた… ―
そっけないが、男は自分を無視したりしない。この人の声が聴きたくて、自分は無知を装ったのだ。
― ああ…早く、どこか休める所に着かないかな。真っ暗でも、この人の腕の中にいられるなら… ―
兼続は、目を覚ました。外はまだ暗い。夜明けには、まだ早いようだ。
「夢か……」
この頃、兼続は自分が女に戻り男と逃避行に出る夢をみる。思わず自分の胸元を見る。男の胸板。兼続の意識のない間も、ちゃんと幻術は機能している。兼続は、ほっと息をついた。
兼続が半蔵と山のほこらに閉じ込められ、辛くも脱出を遂げてから、しばらくたった。兼続は、帰った日からほこらであった事を忘れようと苦心した。政務に没頭し、また、剣術の師の元を訪れて、稽古をつけてもらったりした。さんざん師に叩きのめされ、武士の闘志を再び身につけた。直江兼続らしさを…’男らしさ‘を取り戻そうとしたのだ。だが、何故そうまでして男らしさを求めなければならないのか、そこに考えが及ぶと、兼続は途端に山のほこらの中に引き戻される気がした。ほこらの中で、兼続が’女‘ になってしまった事を、思い出さずにはいられない。その思い出を振り払おうと、兼続は足掻いていた。
― 鎖帷子を脱いでほしい…言ったら怒られるかな? ―
男の胸の中で、兼続は思案する。男の肌をもっと感じたいのに、防具が邪魔なのだ。とは言っても、結論は出ている。「駄目だ」の一言で一蹴されるに決まっている。今は追われているのだから。
「怖いの…」
形ばかり怯えてみせれば、男は抱く力を一層強くする。男が着物の下に着こんだ鎖帷子が痛かったが、兼続は満足だった。真っ暗な蔵の中だろうが、外で雷が鳴り響こうが、何も怖くない。
― この人といるのだから ―
兼続は布団の中でごろごろ転がる。あんな夢をみる自分が恥ずかしくてじっとしていられない。
「な、な……何が’怖いの…‘だ!」
男に媚びる自分に悪寒が走る。夢とはいえ。
― いや、女子ならば、媚の一つも身につけるのは、たしなみの内かも知れぬな… ―
現実では男として生きる自分に出来るだろうか?兼続は生真面目に考えてみる。
夢の内容が、伊勢物語の芥川段の姫君になりきっている自分だと、兼続はとうに気がついている。相手の男は当然……あの男だろう。ほこらから出た後、帰りの山道で伊勢物語の話をした。自分なら好きな女を一人にはしない、腕の中で守ると言った男に、兼続は感じ入った。そうやってあの男に愛される人がうらやましいとも思った。だから、こんな夢を見てしまう。あまり、考えたくない事実だった。兼続がこの夢を気に入らない訳が、もう一つある。逃避行に陶酔する自分が、上杉を離反しているような気にさせるのである。それこそ、夢と現実を混同する考えだが、後味が悪いのだ。
兼続は床を出て、縁側に出る。東の空が、わずかに明るくなっている。夜明けの庭に目をやった兼続は、はっ、とした。桜の木が、満開の花を咲かせていた。いつの間に花をつけていたのか、まるで思い出せない。兼続は草花が嫌いではない。四季折々の草花に心を寄せ、歌や、漢詩を詠むのが好きなのだ。このところの自分が、いかに周囲に目が向かなくなっていたのか思い知った。兼続は反省した。だが、この焦燥感の理由は、それだけではない気がする。それが何なのか、兼続には、まだわからなかった。
「兼続、如何した?」
主、景勝からそう問われ、兼続は動揺した。政務の報告を終え、下がろうとする兼続を引き留め、人払いをした主に、密談の類いかと気を引き締めた兼続だが、話題は自分の事だった。
「何か、心配事があるのか?」
「は、申し訳ありませぬ!、私はもしや、何か失態を…?」
何か手落ちがあっただろうか?平伏しつつ、兼続は頭の内で最近の政務を素早く振り返る。
「手落ちは、無い」
「左様でございますか…安堵いたしました」
本当にほっとした。
「兼続…心配事があるのではないか?」
景勝はもう一度言った。
「……ございます」
兼続は、正直に答えた。
「政の事か?」
「いえ…私個人の悩みでございます」
「…如何した?」
「申し訳ありませぬ!今は申せませぬ」
「む…」
男と逃げて逢瀬に耽る夢に悩まされているとは、さすがに言えなかった。
「この兼続の心の弱さ故の迷いでございます。現実には、もう問題は解決しております。全て、終わった事で…っ…!」
兼続は、自分の言葉に心の臓をえぐられた気がした。
― すべて…終わった事…… ―
あの男と心を通わせる機会は、二度とない。あの美しい素顔を見る事も…二度と、無い。
「兼続?」
主の心配そうな声に、兼続は我に返る。
「ご心配をかけて、申し訳ありませぬ…今しばらくの猶予をいただきたく…必ず、迷いを捨ててみせまする」
「そうか…うむ」
幽鬼のように青ざめた兼続を、景勝はそれ以上追及しなかった。だが、退出しようとする兼続に一言声をかけた。
「辛い事があるならわしが聞く。いつでも話せ」
兼続は黙って平伏した。
「嫌っ…嫌!しっかりして!!」
着込んだ鎖帷子を貫き通して、男の背に矢が刺さっている。兼続を庇ったのだ。男はうずくまり、脂汗を流している。兼続は男に肩を貸し立たせようとしたが、上手くいかない。追手の持つ松明の灯りがいくつも屋敷の周りを取り囲み、二人の姿を照らす。逃げ道は断たれた。「景勝様はひどくご立腹だ!」「裏切り者!成敗する!」聞き覚えのある上杉家臣の声が、兼続に罵声を浴びせる。兼続は姫君ではなかった。敵国の男と駆け落ちした裏切り者だった。ひゅん、と矢が空を切る音がいくつも聞こえてきた。もう終わりだ。だが、兼続の身体に矢は一本も刺さらなかった。一瞬で兼続は押し倒され、その上に男が覆い被さっていた。男は兼続に代わり全ての矢を受けた。追手が引きあげていく気配がする。針鼠のように全身に矢を浴びた男を見て、二人とも串刺しになったと思ったらしい。後には、兼続と血塗れの男だけが残された。
「嫌よ…死なないで…」
瀕死の男にすがり、兼続は、駄々っ子のように無理な願いを男にねだる。
「……教え…て」
「え…?」
血の気を失い、紙のように白い男の唇が最期の言葉を紡ぐ。
「お前の、本、当の…名前…教えて、くれ…」
兼続は答えられなかった。親からもらった女としての名は、もう思い出せない。
兼続は泣きながら目を覚ました。別離の悲しみは生々しく、夢だとわかった後も、涙が止まらなかった。
這いつくばって床から抜け出し、縁側に出る。庭の桜の木は花が全て散り、葉桜となっていた。
「嫌だ……嫌だっ…」
二度と会えなくなるのは嫌だ。あの素顔を見られないのは嫌だ。抱き合った事が遠い過去となり、忘れ去られるのが、何よりも嫌だ。兼続は部屋を閉めきり、床の中で頭まで布団を被る。そして、幻術を解いた。
「半蔵ぉ…」
むきになって心から追い出そうとした恋しい男の名を、兼続は泣きながら呟いた。
「他所の家中の方に……懸想、致して、思い悩んでおります…」
兼続は、主に打ち明ける事にした。兼続の告白に、一瞬、景勝の瞳に悲痛と困惑の入り交じった複雑な色が浮かんだが、消沈している兼続は、主の心の機敏を見逃した。兼続は半蔵の名前は伏せて、景勝に大まかに話した。自分が女だと知られた事、その代わり自分も相手の秘密を知った事。少しの間共に過ごした思い出が、どうしても忘れられない、等々。純潔を捧げた事は話さなかった。話してはいけない気がした。
「兼続……その者に、嫁ぎたいか?」
兼続の肩が震える。
「…………はい。嫁ぎとうございます。あの方の妻になりとうございます…!」
溢れ出る気持ちを抑えられない、というように、兼続は心情を吐露する。
「………よい。許す。直江の家は、お船と信綱の子に継がせよう」
兼続の’妻‘お船には、亡き先夫信綱との間に子があり、兼続とお船でこの子を育てている。
「有難きお言葉なれども……できませぬ」
兼続は苦く笑う。
「…先方と家柄が釣り合わぬのか?ならば、どこぞに一度養女として…」
「いいえ…そうではありませぬ」
兼続は毅然として話し出す。
「あのお方は…今の主に絶対の忠誠を誓っておられるのです。そして、この兼続も、景勝様以外を主と仰ぐつもりはございません。あの方が上杉に仕える事も、私があの方の主に仕える事も、有り得ぬのです」
嫁ぐ許しを得たのは嬉しかったが、そう言われて、かえって確信した。やはり、逃避行は夢の中だけの話で、兼続は上杉を離れる事など望んでいなかった。兼続が生まれ持った性別を変えてまで仕えたいのは、この、強い意志と細やかな思い遣りに満ちた主、景勝をおいて他に居ないのだ。
「兼続……お前の忠誠、わしは嬉しく思う。お前が居らねば、わしの政はたちゆかぬ。だが……」
己の想いを口にするのが苦手な景勝は、少し考えて、また言葉をついだ。
「女子のお前に男と偽らせている事、いつもすまなく思っていた……だから…せめて心だけは、自由にさせてやりたい」
「景勝様……」
「わしが許す。兼続…自由に愛せ」
その言葉がどれだけ兼続の心をの重荷を軽くしただろう。
「……も、…勿体なき…お言葉…」
声を詰まらせて兼続は平伏する。
「これからもわしの側で働いてくれ。お前が首尾よく恋を成就させる事を……祈っている」
「ははっ!」
兼続は意気揚々と退出して行った。これから相手に文を書くのだという。一人になった部屋で、景勝は物思いに耽る。
― 飛び去ってしまう… ―
幼い頃から愛しんだ美しい小鳥が今、番の相手を見つけて自分の手から飛び去って行く、そんな幻想が景勝の脳裏に浮かぶ。
「やはり、母上の言う事など聞かず、さっさと嫁にしてしまえば良かったな」
精一杯冗談めかして、誰にも聞かせられない本音を口にする。景勝は、自分が最初に見初めた娘の幸せを、心から願う。未練を振り切るように、ゆっくりと目を閉じた。
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