半蔵×兼続

後編B

















 もう、すぐそこまで春が来ているが、今はあくまでも冬だ、と実感する。白や灰色、薄茶色の木々からなる冬景色の中で入る小川の水は、身を切るように冷たい。その冷たい川の中、半蔵は兼続の頼みで、彼女を抱きかかえて腰まで水につかっている。

兼続が気を失っている間に、半蔵は彼女を背負い、山中に流れる山川のほとりに来ていた。あのほこらの近くからは一刻も早く立ち去りたかったし、互いの体液でべとつく身体を洗い清める為に水場を探していた。幸い、陽はまだ高い。半蔵は知らなかったが、あのほこらの中は時の流れからも切り取られた空間だった。兼続が足を踏み入れた瞬間からほこらの中で時は止まり、半蔵と共に脱出するまで、現実ではほんの一瞬の間の出来事だったのだ。

兼続は、優しく身体を拭かれる感触に目を覚ました。

「あ…」

「気がついたか?」

うなずく事で半蔵に返事をし、目線だけで辺りを見回す。身体を動かすのが辛かった。

「出られた、か」

「ああ」

二人して、安堵のため息をついた。

「はん…服部殿」

「無理をするな。しばらくは側にいてやる。」

「服部殿、頼まれてくれぬか」

「……何だ」

兼続が半蔵と呼ばなくなった事を、さして気にしていない風に装いながら、半蔵は返事をした。

「貴公にこのような事を頼むのは、まことに心苦しいが…恥ずかしい話、身体が全く動かぬのだ」

「ああ」

「申し訳ないが……私を抱きかかえて川に入り、私の…ほとを洗ってほしい」

妊娠の可能性をわずかでも排除したいのだろう。

「………ああ、わかった」

兼続の頼みを聞いて、半蔵は兼続の陰部に指を突っ込み、水ですすいでいく。

「…っ……んっ…」

足を左右に大きく広げ、目を閉じて、女陰をかき回す男の指に耐える兼続の姿に、半蔵の一物が暴れだしそうになる。兼続の中から新しい愛液が、後から後からあふれてくる。だが、二人は耐えた。もう一度、と相手を抱きしめたくなるのを、耐えに耐えた。半蔵は忍の一字で愛液のぬめりを洗い流した。

冷たい川から上がった二人は衣服を身につける。兼続の着物は半蔵が着せてやった。兼続は、未だに女の姿のままだ。半蔵も戻れとは言わない。ひんやりとした女の柔肌を衣で覆うのを、半蔵は惜しく思った。

兼続が、昨日半蔵が転がり落ちた所に馬をつないであると言うので、そこまで半蔵がおぶって行く事になった。自分を突き落とした相手を背負いその場に戻るとは、皮肉なものだと半蔵は思った。



山道は緩やかで、人一人背負った半蔵でも、一気に駆け抜けられそうだったが、半蔵はあえてゆっくりと歩いた。

「服部殿、私は、貴公に謝らなければならない」

「馬ではねとばした事か?気にするな」

「違う。私は上杉の者だ。曲者を捕らえる為なら、なりふり構わんよ」

「……そうだな」

「そうではなくて…ほこらに閉じ込められたのは、おそらく私のせいだ」

「何だと…」

背中の兼続が何やら不穏な事を言い出した。

「服部殿は、何故、神が我等に契れと望まれたか、わかるか?」

「わからん」

「即答か?ふふ、神のお望みは我等の契りそのものではなく…」

兼続の、ふくよかな二つの丸みが、先ほどから半蔵を悩ませていた。兼続は着物を着た時、さらしだけは身に付けず、小袖の袂にしまっていた。兼続は幼子のように、ぴったりと半蔵の背に寄り添っている。その方がぐらつかず、背負う者にとっては有難いのだが…背に押し付けられた兼続の乳房が、半蔵が身体を動かす度、微妙にうごめき、甘美な感触でもって半蔵を誘惑するのだ。鎖帷子を着込んでいるのに、やわさの中に弾力を持つ乳房の感触を半蔵は背中で感じた……鎖帷子など、脱ぎ捨ててしまいたいと思った。

「…我等が契る事により、私が、子を孕む事こそが、お望みだったのだ」

「……………」

「……服部殿?」

「!ああ、いや、…何故、お前が孕まねばならん」

半蔵は、山の景色に目をやり、乳房の誘惑から逃れようとしていた。きん、と冷えた空気を胸に吸い込む。寒いからこそ、陽光のわずかなぬくみがとても有難い。枯れ木ばかりが落ちている土の間から、新しい緑が顔をのぞかせている。この山が春の目覚めを迎えるのはもうすぐだろう。五日先か、十日先か。花と緑の匂いに包まれた山の姿を見てみたい気もするが、その時には、もう自分は国に帰還している。

「私の孕んだ子に宿り、肉の身体を得て、人の世に降臨される事が、最終的な目的だった、と私は思う」

「何故そんな…」

「人の雄がほこらに入り込み、後を追って雌が入ってきたから…急に、思い付かれたのだろう」

神の気まぐれなどそんなものだ、と兼続は笑って言った。…結局、その神の気まぐれに二人は散々振り回されたのだから、迷惑な話だ。

「貴公と交わった時、私は……貴公の子を孕みたいと強く願った」

ひどく、言いにくそうに兼続が切り出した。半蔵は、首だけ振り返って兼続の赤面ぶりを見てやりたいと思った。

「その時、神の本当のお望みに気づいた…もし、あの場で貴公の精が私の腹の中に注がれていたら…神の御力で、私は必ず孕んでいたに違いない…」

「………」

半蔵にも覚えがあった。あの時、兼続に自分の子を産んでほしいと、その願いで頭が一杯になった。

「あの場では、私も、貴公も、正気ではなかったのだ。だから……

「………」

「あのほこらの中であった事は、忘れてくれ」

「………わかった」

それを言いたいが為、こんな話をしたのか。こんなにぎゅうぎゅうとしがみついて、乳房を押し付けておいて、何を馬鹿な事を。お前は自分が女であると、俺に刻みつけたいのだろう……震える声で、抱き合った事を忘れろ、というのか。半蔵はやるせない気持ちになる。だが、うなずくしかなかった。’これも務めの内‘と最初に言ったのは自分だった。



それきり、二人の会話は途切れた。何となく気まずい。それでも、半蔵は歩みを速めなかった。二人とも無言で山道を行く。しばらくして、兼続がぽつりと呟いた。

「露とこたへて消えなましものを……」

「?」

「あ、」

「…どうした?」

「すまぬ。…いや、歌を思い出してな」

呟いたのは無意識だったらしい。

「服部殿は伊勢物語を知っているか?」

「知らん」

「かなり昔に書かれた物語だ。それに、男が姫君を背負って逃げる話が出てくる」

兼続はこういう話が好きなのだろう。生き生きとして語りだした。

「男は姫と身分が釣り合わず結婚は叶わない。思い余ってある夜、姫を屋敷から盗み出し、背負って逃げる。夜の芥川のほとりを行く時、草の上に光る夜露を見て、姫があれは何かしら、と男にたずねるが、先を急ぐ男は姫の問いを無視する」

「その姫は露も知らんのか?」

呆れて、半蔵は口を挟んだ。

「それだけ姫が高貴な箱入り娘だという説と、暗い夜だったからよく見えなかったとする説があるな」

「…見えなかったんだろう」

「信じられぬほどの箱入り娘、というのも面白いぞ。物語の中だけなら」

自分は違う、と兼続は言いたげだ。半蔵は、自分が色事に疎い兼続を、箱入りの姫のように見ていた事に気づいた。

雷も鳴り出して往生した二人はやっと隠れられそうなあばら家を見つけた。蔵があったのでそこに姫を押し込め、自分は弓で武装して戸口に立ち、追手が来ないか見張った。だが、そこは鬼の棲み家だったのだ。蔵の中で一人きりの姫の前に鬼が現れる。姫は悲鳴を上げたが、雷の音にさえぎられ男の耳には届かなかった。鬼は姫を一口で喰ってしまった」

信じられないほどの箱入り娘が無惨な最期だ、と半蔵は思ったが、戦に負け落城すれば、どんな高貴な生まれでも似たような事になる、とも思った。

「朝になり、男が蔵を覗いたら姫は影も形もない。男は嘆き悲しみ、歌を詠む。’白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消えなましものを‘…あれは何?白玉かしら?とあの人が聞いた時に、あれは露と言うものですよと答えて、私も露のように儚く消えてしまえばよかった、というような意味だ」

「そうか」

「私は…芥川段、として知られるこの話を、残された男が気の毒な悲恋の物語と思っていたのだが、こうして貴公に背負われていると、さらわれた姫はどんな気持ちだったのだろうか、と考えてしまってな…」

ふう、と兼続がため息をついた。

「…ひたすら怯えていたんじゃないのか?」

「え?」

「返事もろくにしなかったり、物のように蔵に押し込めたり、ろくな男じゃない。相愛の男女なら、抱き合って二人で蔵に隠れるんじゃないか?姫は無理やり拐われたんだろう」

「…ほう」

兼続が面白そうに相づちをうつので、むきになって物語の感想を述べたのを半蔵は恥ずかしく思った。

「…服部殿なら…惚れた女子をそうして守るのか?」

「蔵には押し込めんな。離れていては、いざというとき庇ってやる事もできん。俺なら…しっかり抱きしめて夜明けを待つ」

背後の兼続が微笑んだ気配がする。やはり喋り過ぎた、と半蔵は思った。

「…服部殿、なら、鬼に出し抜かれはすまい…女子も…安心して……」

兼続は眠くなったらしい。

「その女子が…うらやま、しい……」

安らかな寝息が聞こえてきた。力の抜けた兼続の身体の重みが、何故か半蔵の胸を打った。

「起きろ。敵の忍の背で眠る奴があるか…」

そう言う半蔵の声は囁くように小さい。まるで、兼続の眠りを覚ましたくない、というように。半蔵は歩みを止めた。

― このまま、拐ってしまおうか ―

胸の内に燻る想いを、半蔵は形にしてみた。

― このまま、この女が目を覚ますまでどこまでも駆けて、どこかの山に隠れ棲んでしまおうか。誰にも見つからぬよう、ずっと腕の中で… ―

愚にもつかない妄想だと知りつつ、半蔵はしばし立ち止まり、その想いに浸る。

― 結局、俺も姫を拐った男と変わらんな ―

苦く、笑った。

「おい!起きろ。もうすぐ昨日の場所に着くぞ」



兼続が繋いでいた馬は、すぐに見つかった。馬の背に跨がると、もののふらしく、兼続の背はしゃんと伸びた。

「服部殿、世話になった」

「ああ」

「できるだけ早く越後を出てくれ。上杉の忍も貴公を探している」

「わかった」

「今日の事は……他言無用に、頼む」

「……ああ、わかった」

兼続の顔に安堵が浮かぶ。

「では…さらば」

別れを惜しむように半蔵を見つめていた兼続だが、ついに手綱を引き、半蔵に背を向けた。馬が歩き出す。その背に、半蔵は声をかけた。

「兼続!」

兼続の肩が、大きく揺れた。

「やはり、俺はお前という女を忘れぬ事にした」

「…!?」

「俺は、正直なのでな」

「はっと…半蔵!」

兼続は慌てて振り返る。そこに半蔵の姿はなかった。

「お前の女としての名…いつか呼びたいものだ」

どこから声が聴こえて来るのか、兼続は見つけられなかった。明るい陽光の下でも、兼続は呆気なく半蔵の姿を見失った。

「半蔵……」



兼続は、最後まで女の姿のままでいた。












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