愛の言霊
弐
「三成…」
名を呼ばれ優しく髪を撫でられる手つきに三成は目を覚ました。
起き上がり庭に目を向けると、いつもなら朝日に照らされて白く輝く新雪に赤い南天が映える景色が、今日は既に雪もなくもみじが爽やかな鶸色に染まっている。どうやら昼を過ぎたぐらいだろうか。
「弱いのに私に対抗などしようとするからだ」
笑いながら兼続が言う。そう言われて三成は朦朧とする頭で昨晩の記憶をたぐる。
どうやら昨晩は兼続に出来て俺が出来ぬはずがないと、兼続が普段一人で空けてしまう濁酒を自分も一人で空けるなどと豪語していた。しかし思えばそんな事を言い出した時点で自分は随分と酔っていて正気の沙汰ではなかったようだ。痛む頭に後悔の念。
だが、今日特に何をしないといけないでもない、たまにはこんな事もいいかと思いなおす。
兼続が水をもってきて差し出すと三成は一気にそれを飲み下し、まだ頭が痛い、そう言って兼続の膝の上に頭を乗せごろりと横になった。
まるで大きな子供のようだ、そう言って兼続がまた笑う。
暫くは膝の上の三成の頭を撫でていた兼続だったが、三成の頭が転げ落ちてしまわないようにと気遣いながらも何かを取ろうと部屋の隅に手を伸ばすようにしている。
それに気づいた三成は頭をあげて兼続が手を伸ばした先を見る。
「何をしているのだ?」
「いや、今朝お前が起きてこないから乾かしておいた竹で笛を作っておったのだ」
「笛?」
「ああ」
「笛が作れるのか」
にこりと笑って兼続が頷く
「お前は何でもできるのだな、兼続」
「大袈裟な、これは自分の気を落ち着かせる為に好きでやっていただけの事だ」
「聞きたい」
「しかし、その頭では響くであろう。それに、ほら、まだ完成しておらぬ」
そう言って目の前に差し出された竹には、なるほど、常のもほどまだ穴の数がない、ならばお前が作っているのを眺めよう、と三成は再び兼続の膝の上に陣取る。
細い一本の竹に小刀が行き来するとそれは次第に笛らしくなっていく。器用なものだ、そう思い兼続の指先に見とれていると、すいっと小刀がすべりその指を傷つけた。あ、と思った瞬間にはもう白い指から真っ赤な血が流れ出していた。大丈夫かと尋ねようとした瞬間、ごとりと小刀が床に落ちる音が響く、そして兼続の上体がそのまま後ろにゆっくりと倒れてゆく。
三成はとっさに起き上がりその体を抱き止めた、
「兼続!」
大丈夫かと呼びかけると薄っすらと目が開かれるがその視線は宙を漂いしっかりと三成を捕らえない。
頭が痛むのもすっかり忘れて兼続の体を抱き上げると先まで自分が眠っていた床に横たえた。切れた指先が褥に赤い斑点模様を作るのに気づいて三成はその手を取り指を吸いあげた。幸い傷はそう深くなかったようで血はすぐに止る、しかし兼続の意識ははっきりとしない。
三成は兼続の手を握りしめ何度も名を呼んだ。
兼続も聞こえているのか時々みつなりとおぼつかない声で返事をしようとする。
一体どうしてしまったのか、額に触れるが熱があるようでもない、ただ朦朧とした意識で時折三成の言葉に反応をしめす、しかし何が出来るでもなくただその手を強く握るだけで、徒に時がすぎてゆく。
こんな時はどうすればよい、どうしていた。そうだ、医者を呼ばねば、そんな当たり前のような答えにいきついたが、いやここには自分達二人しかいない、と思いなおす。
自分達二人しか―――
それはつまり、一体どういう事なのだ。
幾日か、いや幾歳だったろうか、前に三成の脳裏に浮かんだ疑問が再びよみがえる。
ここは何処なのだ、何故自分は兼続とふたりきりでこうしてこんな所にいるのだろうか、と。
当たり前の様に眺めていた四季の美しい所だけを切り取って貼り合せたようなこの景色、ここはどこなのだ、一体どうして――
湧き上がる疑問、しかしその答えの糸口すらも見つけられずに悶々としていると、不意に強く手を握られる感覚にはっとして兼続に視線を戻した。
「三成…」
先までは宙を浮いていた視線が今度はしっかりと三成の姿をその瞳に映し出している。
「離さないでくれ」
そう言って縋り付いてくる、白い頬に真珠のような涙が転げ落ち、何を憚るでもなく泣きじゃくる。
三成は大丈夫だ、と兼続の背を抱きしめ、ゆっくりとその背をさする。
今しがた自分を大きな子供のようだと言って笑った兼続が幼子のように、いつまでも離さないでくれと繰り返していた。
翌朝、昨日の事など何もなかったかのように快活に笑む兼続を見て三成はほっと胸を撫で下ろす。
そして、いつかの日のように沸きあがりかけた疑問も、いつの間にやら霧散してしまっていた。
「笛ができたぞ」
兼続はそう言って笑むと昨日削りだしていた竹を三成の前に差し出した。
「何時の間に?」
「昨夜目が覚めてな、眠れなくなったからまた作っておったのだ」
「全く、あのように倒れておきながら…眠れなくても寝ておかねばならぬだろう」
「まぁ、よいから、聞きたいか」
三成が諌めるのを笑って受け流し、子供のように問いかけてくる兼続に三成は当然と頷いてみせる。
兼続の赤い唇がそっと笛に近づく。
三成はごくりと息を飲んだ。
その白い指が奏でる音色はえもいわれぬ美しさである。
雪深い峻険の峯に、美しき声にて法を説く迦陵頻伽という鳥が棲むという、その美しき声に人は飽く事なく聞き入ると。雪深い北の地より出で人の心に愛とは、義とは何かと解く凛とした美しさを思い、その鳥はこのように啼くのではないだろうか、三成はふと思う。
そして澱みを取り去る、禊の儀式のような音にそっと目を閉じる。
だがいつまでも続くかと思われた美しき時は、突如として止まり、三成の目を開かせた。
どうしたのだろうと目を向けると、先の旋律からは想像もできぬほどに悲愴な表情を浮かべた兼続がこちらを見つめている、そしてまた昨日のようにか細い声で三成の名を呼ぶと縋るように手を伸ばしてくる。
しかし、その手は寸での所で三成には届かず、がくりと体ごと崩れてしまった。
一体兼続の身に何が起こっているのか、意識の無い兼続の体を抱き上げると、今にも消えてしまいそうなその存在感の薄さに不安が突き上げてくる。
と、その時
兼続――――、
どこからともなく兼続の名を呼ぶ声が響く。己の声ではない。
己でもなく兼続でもないその声、随分と長くお互いの声意外を聞いていなかった。その声は三成の身に稲妻のように走り抜ける。
今のは誰の声だ、名は思い出せぬが三成の中に確かな記憶がある、記憶はその声を知っていると言う。
記憶の糸を手繰ろうとした時再び、
目を開けてくれ―――、
悲痛な叫びのような声が今度はより明瞭に響く。
この声は…、ああ、そうだ、この声は、兼続を守るようにいつもその傍らに立った男の声ではないか、名はなんと言っただろうか、確か…その男の名は…
頭に浮かび上がる男の顔が三成の記憶の扉にかけられた封印の呪を解こうとする。
遠い日に兼続がかけた呪を
死ぬな、兼続―――、
三度目に響いた声に、ついに三成の記憶の扉は開かれる。それは決壊した堤のごとく幾千、幾万もの記憶をあふれさせる。津波のごとく押し寄せる数々の記憶の中、三成の心により鮮明に写るものがある。
ああ、そうだ、俺はあの日
十月一日―――、
あの日、遠い空を見上げ最後に強く願った、もう一度だけ会いたい、と。
為すべき事をした結果だ、己が運命を恨みはせぬ、だが、そこにはたった一つの後悔。
差し出された愛に最後の最後の瞬間まで気づく事が出来ず愛する人に己の気持ちを伝える事が出来なかった事。
あまりにも強すぎたその想念が、こうして現を離れても黄泉に行き着く事を拒み兼続を呼び寄せたのか。否、呼んでいたのは三成だけではない、その身が現にありながらも愛する人を強く思うあまり黄泉へ近づこうとしたのは兼続も同じ。
ここは現と黄泉のはざ間、思い合う二人の情念が織り上げた夢幻の世界。
しかし、兼続を現世へ繋ぎ止めんとする声が、その魂をさらってゆこうとする。
創造主を失いつつある楽園はゆっくりと崩壊を始める。崩壊してゆく楽園の中心で兼続の体を抱いたまま三成は倒れ伏していく。
ああ、俺はまた伝えそびれてしまったのか。