Manicomio
精神病院
白い病棟の廊下の途中、まだ二十代後半程であろう若い医師は足を止めて深い溜息をついた。
−あの患者には会いたくない・・・
憂鬱な面持ちで何度も同じ事を心の中でつぶやいていた。
精神科医の自分が、単に疲れるだとか不安になる、そんな理由で患者を拒んではならない事はわかっている。それにそんな事でいちいち患者を選んでいるようではこの仕事は勤まるものではない。
ほんの数分の問診なのだそこまで思いつめる事はないではないか、と自分を奮い立たせようとするのだが、やはり気が重い。
その患者はいつもこの青年医師を「兼続」と呼んだ。初めて会ったその日から、名乗りもしていないのにそう呼ぶのだった。もちろん彼の名は「兼続」ではない。そして患者は自分は「政宗」だと名乗ったのだが、問診表の彼の名前の欄にもそうは書かれていなかった。
どうやらこの患者こんな風に赤の他人をまるで知っているかのように違う名で呼んでみたり、全く訳の分からぬ問いの答えを見知らぬ人間に迫ったりしていたらしい。心配した家族はどうも自分たちでは手に負えぬと男をこの病院につれてきた。
妄想性障害−、それが男の病名となった。
初めて青年医師が問診をした時、男は随分と興奮をしていた、やはり運命だったとか、思い出せとか必死で訴えかけてくる。理解できぬ事を言う患者というのは精神科医をしていれば珍しい事ではない。
だが、青年医師にとってこの患者の言動は何か只ならぬものを感じずにはいられなかった。
それにこの患者と会ってからというもの毎晩奇妙な夢を見るようになった。
夢の中で患者がいつも目の前にいるのだ。
最初の頃はただぼんやりと、男を見ていただけだったが、近頃はしっかりと会話をしていた事も思い出せる。しかし男と自分は奇妙な事にテレビの時代劇や歴史ドラマで見るような身なりをしていて、そしてとても親密そうにしているのだ。
『今生では叶わぬ、だが来世では必ず…ッ、必ず結ばれようぞ――』
そう言って二人で涙を流した。
目覚めた時にはいつもものすごい疲労感に包まれている。
ミイラ取りがミイラに…とは言うが、自分があの患者に引きずられて頭が変になってきたのではないだろうかと思う。この頃ではそんな自分が精神科医なんて仕事を続けていって良いものかとか、そん悩みも出てきた。
気が重い、やはり会いたくない−
もう何度目かになるか分からない溜息をついた時、
「兼続、待っておったぞ」
廊下の端から例の男が嬉しそうに笑顔を見せている
「政宗…」
青年医師は自らの口から自然と零れ落ちた言葉にまだ気づいていない。