凶風

前編


















!注意!光風との二部作品になってます。バッドエンドにするつもりはありませんがもしかしたらバッドエンドだと思う方もいるかもしれないので、絶対ハッピーエンドじゃなきゃ駄目な方はこちらは読まない方がいいかもしれません







 幸村の屋敷を出て半年程したその年の夏、武蔵はしばらくは訪れることはないだろうと思っていた大坂の町にいた。

―真田家に謀反の疑いあり。

 町から町へと旅をするにつれ何やら不穏な噂を耳にしたからだ。馬鹿馬鹿しいと思ったものの、その噂が大坂に近づけば近づくほどにまことしやかに囁かれるのに武蔵は一抹の不安を覚えていた。
 屋敷についた武蔵は、兼続の存在のおかげだろうか柔らかさを増し、大名としての威厳も具えだした幸村の姿に安堵した。
「息災であったか」
「ああ、俺は相変わらずだ。それよりちょっと気になった事があってな」
言った武蔵に幸村ははてという顔をしたが、すぐに膝を打った
「例の噂の事か」
幸村が何事も無さげな顔で言うのでやはり大した事ではないのだろうと思った
「実はな城との間で書状の行き違いが立て続けに何度か重なってな…。多少の誤解が下の者同士であって私も自ら秀頼様にその旨を詫びに行ったりもしたのだ」
「…で」
「何事も無く収まったのだがな、不審な点が無いとは言えぬでもない」
 真田の屋敷に口軽くそういった事を口外する者もいなければ城でも話がついている事なのにどうして今のように噂として外へ広がったかという事だった。
「しかし何の根拠もない事ゆえそのうちに収まるだろう」
「そうだな」
 幸村に全幅の信頼を置く秀頼と、その信頼に全力で応えようとする幸村の強い絆を間近で見てきている武蔵には、これが大きな問題に発展するようには思えなかった。
 だがそんな武蔵の気持ちとは裏腹に武蔵の滞在中に再び話しに聞いたような妙な事が起きた。

 この屋敷に忍でもと思ったが、今の豊家に敵する勢力があるだろうかと武蔵は思った。
 庭では多忙な政務の間を惜しむように幸村が兼続に何事かを話している。兼続はそんな幸村に穏やかな笑みを浮かべうなずいている。二人の関係が武蔵が想像していた以上に親密になっている事は、武蔵がこの屋敷を訪れてすぐに知れた。ふとした時に幸村に触れられる兼続の仕草に艶があり、また幸村の表情は友を思う以上の深い親愛に満ちていた。

 ―兼続が来てからあいつはあんなに明るさを取り戻してこの邸の中はこんなに平和だってのに…

 しかしそう思った武蔵の脳裏に卒然とある疑惑が浮かんだ

兼続が来てから―

 いや、ありえない、そう思いなおして頭を振ったがその思考を追い出そうとすればするほどに疑惑が膨れあがってくるのを感じた。
 武蔵はそれからしばらく幸村の屋敷にとどまる事にした。むろん、理由は幸村には告げなかった。そして己の考えすぎであってくれと祈るような気持ちで兼続の行動を注視していた。


 兼続は七日に一度程、幸村が京へ出仕して幾日も戻らぬ時などは三日とおかず屋敷の者が寝静まった深夜に屋敷を抜け出してどこかへ出かけている事を武蔵は知った。人目をはばかるように裏門から抜け出す兼続は大体一刻程で戻ってくる。
 月の明るいある晩、武蔵は兼続をつける事にした。
 兼続が裏門を出て暫く、武蔵は静かに外へ出た。
 視線を四方にやると一つの通りの先を小走りに進んでいく後姿が見えた。兼続は小走りに屋敷の間を走り抜け、やがては民家もまばらな耕作地へ出た。周りに田と畑ばかりで身を隠す場の無くなった武蔵は長い距離をおいて兼続を追ったが満月に近い月明かりの下では見失う事もなかった。目的地に向かう兼続の足は後ろの気配等気にかける様子もなく、どんどんと速くなり息も乱しているようだった。
 やがて山の裾にある小さな社にたどりつくと、兼続はようやく呼吸を整えるような仕草をすると、一度辺りを見回して社の中へと消えた。
 武蔵は履いていたわらじを脱いで静かに社殿に忍びよった。山にこもって修行をしていた日々を思い出すように静かに深い呼吸を繰り返していると、やがて足下を歩く虫の足音や小動物が木に登る音が耳の横にあるように聞こえてくる。それにまじって人の話し声も聞こえてきた。兼続の声だ。

「真田が大坂に居る間は秀頼との信頼関係を崩すのはやはり難しいようです…」

ドクンと武蔵は己の心臓が跳ねるのを感じた

「けれど、もうしばらく……。真田は私を連れて近々領国に帰るつもりです。そうなればいかほどか事はすすみやすくなるのではございませんでしょうか」

それを聞いて兼続ではない誰かが忍び笑う声が聞こえた。

「小太郎様……この兼続、必ずや小太郎様の御意のままに事を成し遂げてみせます…だから……」

言葉尻は甘えるような色をお帯びやがて吐息に変わった。しかしふいにその吐息が塞がれたようなくぐもった音に変わる

「兼続……、今宵は犬でも連れてきたか?」

足を杭で地に打ち付けられたように動けなくなっていた武蔵ははじかれたようにその場から走り出した。

 全身汗にまみれる程の疾走をして屋敷に戻った武蔵は今見聞きした事は何だったのかと反芻した。
 兼続は己を兼続と呼び、ー小太郎と言ったか。
 そして最後に聞いた声は間違いなく己が江戸城で聞いた風魔小太郎のものだった。
 何か悪い夢でも見ているのではないか、兼続はずっとあのはなれで眠っていて己が狐にでもつままれたのではないか、そんな事を思ってみたがやがて忍ぶように外から戻った兼続の姿が、今見てきた事は現実なのだと武蔵に告げた。
 武蔵はまんじりともせずに朝を迎えた。

 最悪の状況として、こういう事態を想定しなかった訳ではない。だが実際にその状況におかれるのと想像する事の隔たりは大きかった。たった一晩で武蔵は幾日も不眠不食でいたように憔悴しきっていた。

   ―知ってしまった以上このまま捨て置く訳にはいかない。武蔵は敷地内の普段は人の出入りの無い蔵に兼続を呼び出した。

「武蔵様?」
蔵に足を踏み入れた兼続は小さな明かり取りから入る光の中に幽鬼のように浮かび上がる武蔵の顔を見て息をのんだ
「武蔵様…か。いいんだぜ兼続、そんな呼び方しなくても。憶えているんだろう俺の事も、自分の事も」
兼続は困惑した表情になった
「かね…つぐ?武蔵様、一体何を?」
「いい加減にしやがれ!昨日の夜お前はどこに行っていた!誰と会っていた!」
武蔵の恫喝に兼続は怯えたように後ずさった。逃がさないと武蔵は兼続の襟をつかむと柱に押し付けた
「何故だ、何故幸村を裏切った。あんたは分かってるはずだ、あいつがどんな思いで今あんたといるか……」
武蔵は泣きたくなる己を叱咤した。
「頼む、あんたの口から本当の事を言ってくれ。これ以上あいつを傷つけないでくれ、あいつは十分苦しんだんだよ」
「私は…、幸村様を傷つけるつもりなど」
「……ッ、とんだ役者だぜ、あくまでしらを切るってんだな」
武蔵は今度は乱暴に兼続を地面に投げつけた。兼続は一度は立ち上がろうとしたが打ち所が悪かったのかうまく立てず呻いた。そんな兼続を見下ろしながら武蔵は黙って刀を抜いた
「あんたを斬る」
「おやめ…下さい…」
兼続が己の身を護るように腕を上げ、武蔵が刀を振り上げた瞬間

「何をしているっ!!」
蔵の扉が開かれると同時に切迫した叫びが響いた。幸村が蔵の入り口に立っていた。
「武蔵!乱心したか!」
幸村は武蔵の行動を警戒するように刀に手をやりながら兼続に駆け寄ると肩を抱いて起こした。
「大丈夫ですか」
「幸村、乱心したのは俺じゃねえ。風魔の走狗になってお前を欺こうとしている直江兼続の方だ」
「な、何を言っているのだ」
武蔵の兼続に対する凶行に頭に血を上らせていた幸村だったが、いつになく悲壮感を漂わせて言う武蔵の言葉に冷静さを取り戻した。


 幸村は兼続を別室に移すと武蔵の話を聞いた。
「俺の話は信じられないか」
 暫く黙っていた幸村だったが、いやと静かに言った。
「私が近々領国に帰るかもしれないという話は、まだはっきりと決めた事ではなかったからな。その事を話したのは秀頼様と兼続殿のみだ」
「どうするんだ幸村」
「風魔は妖術を使う、兼続殿は奴に操られているのかもしれない。まずは風魔を討つ事が先だ。それまでは兼続殿には地下の座敷牢に入ってもらう」
「……だが、もしもあいつが自分の意志でやった事だったとしたら……」
しばらく黙って俯いていた幸村だったが、ゆっくりと顔を上げると
―斬るしかあるまい
そう言って、静かに立ち上がり室を出て行った。
 武蔵はやるせない気持ちになって畳に拳をつきつけた。兼続の生存を知って、あの大戦以降初めて幸村の瞳に灯った穏やかな光が消え去っていた。
 もしも再び兼続を斬らなければならない様なことになれば、その心が負う傷はいかほどのものか、しかし今しがた見た幸村の瞳はその未来さへ見据えた陰惨な光を湛えていた。

 それから数日、武蔵はたった一つの手がかりだったあの社に通ってみたが、風魔の消息は知れなかった。
 兼続を牢に入れて八日目の晩、兼続の様子がおかしいらしいと幸村が牢番に呼び出されたのに武蔵もしたがった。
 畳の上にぐったりと横になった兼続は額に汗を浮かせて荒い呼吸を繰り返している。
 幸村は迷わず牢の中に入ると兼続を抱いて声をかけた。その声に薄く目を開いた兼続は何事かをささやいた。
「何です、もう一度言って下さい」
 言葉を聞き取ろうと幸村がさらに身を寄せた時、兼続は幸村の脇差を抜き取ると一刀切りつけて牢の出口へと走った。一瞬の出来事に武蔵も驚いたが、すぐに抜いた刀で兼続の行く手を阻んだ。
 肩で息をしている兼続、体の不調は作り事ではないらしく、手元を狙って武蔵が刀を振ればあっけなく兼続は幸村から奪った脇差を落とした。膝をついたところを取り押さえて牢に押し戻すと兼続は畳の上にうずくまってがたがたと震えだした。
 幸村は腕に受けた傷の事も忘れ呆然とそんな兼続の姿を見ていた。
「おい、幸村、しっかりしろ」
 武蔵が幸村を牢から連れ出そうとしたその時

―つまらぬな

静かだが相手を圧する、その聞き覚えのある声に二人は戦慄した

―いま少し楽しめると思うたが

声を発しているのは兼続だが、兼続の声ではない。身体からは震えも消えゆらりとその身を起こしていた。

「貴様、風魔!やはり兼続殿を操っていたのだな!」
くつくつと兼続が笑う
「何がおかしい」
『この男は自ら望んで我が手に堕ちたのだ』
「下らん嘘を言うな!姿をあらわせ卑怯者め」
『戯れが知れてしまった以上こやつは役にたたぬ。返してやってもよいが、無理に我から引き離せば壊れてしまうぞ。真田幸村、見せてやろうかこの男の心の深淵を』

一瞬で目の前に迫った兼続に幸村は得物を構える暇もなくその頭を捕らえられていた。




続く