翳恋















 暮れゆく橙色の空に一羽の鳶が旋回している。ここの空は木々に覆われた山の村に比べて広い、だけど鳥の声や空の色が一枚の薄紙をかけたように遠い。
 幸村とくのいちにあの山里から連れ出されて一日程しかたっていないというのに、あの村で暮らしていた安穏とした日々が遠い過去の様に感じられる。もう二度とあそこに戻る事は適わないかもしれないという思いが兼続にそう感じさせているのかもしれない。

 昨日の告白を幸村は一体どう受け止めているのか、幸村がどんな裁断を下すのか、村の者達はこの先どうなってしまうのか。そんな事を何度も考えている間に陽は山の稜線に消えいろうとしていた。
 幸村が会いに来るのかと思ったが、下男が食事を運んできたのと、朝にくのいちがやってきて暇なら読めと数冊の書籍を置いていったきりだった。
「皆心配しているだろうな…」
 村の者達の顔を思い出しながら兼続は呟いた。
そこへ廊下の向こうから足音が近づいてきた。開かれた障子から幸村の姿が覗くと兼続は複雑な気持ちになった。答えの分からぬ問いを己に問い続ける事に少し疲れていた兼続、その答えを持っている幸村の登場を待ちわびていた。だが、同時にそれが服部半蔵を含む村の者へ対する死刑宣告であればどうすればよいのかという極度の不安を胸にかかえ
「幸村っ」
 幸村は兼続に微笑を向けた
「それで、あの村の事についてだが……」
 挨拶も忘れ今すぐにでも幸村の決断を知りたいと口を開いた兼続を幸村の手が制した。
「今はその話はやめましょう」
「何故だ、村には……」
 尚も喋ろうとする兼続を乱暴とさへ言えるような勢いで抱き寄せ、その唇を幸村は今度は唇で塞いだ。驚いて硬直する兼続の口にゆっくりと幸村が舌を差し入れた、次の瞬間兼続は幸村を突き飛ばしていた。唇を護るように覆う兼続に幸村は不審な顔をした
「兼続殿?」
「ならぬ幸村……」
「何故です」
「私達はもうそのような関係ではない。それに今はそのような時では……」
 兼続は幸村の顔を直視できずに、俯いた。その言葉尻は後ろめたい事があるかのように小さく萎んでしまう
「私達にはそれぞれに護るべきものがあり、離れなければならなかった。だけど今は私達の間には何も障壁はない、違いますか」
 喋りながら幸村は再び手を勧め、畳の上に縫いとめるように兼続を押さえつけた。表情と声音の優しさとは裏腹に幸村の手には絶対に逃がさぬといわんばかりの力がこめられている。初めて抱かれた時と同じ恐怖が兼続の胸にわきあがってきた。足を割られ、袷から手が差し込まれ……、以前ならばこのまま流されていたのだが―、兼続の脳裏に物静かな男の横顔が浮かんだ。
言葉では多くを語らないが、いつも兼続の身を、心を案じ五年間、ずっと、そっと寄り添っていたその男の顔を思いだした瞬間、兼続は渾身の力で幸村を突き飛ばしその男の名を叫んでいた。

――っ!

 突き飛ばされた幸村は耳を疑うという顔をして目を見開いていたが、その後波がひくようにすっと無表情になり兼続を見つめた。
 己の口から出た名に自分自身でも驚いた兼続は悪戯を咎められた子供が必死にいい訳をするような風情で口を開こうとしたが、近づいてきた幸村の激しい平手打ちによって阻止された。
 あまりに激しい一発に兼続の上半身は畳へと倒れこむようになり、視界に星が飛んで動けなくなった。その兼続の身体を幸村は無慈悲に転がした。恐怖した身は逃れようと畳の上を這おうとしたが今度は髪の毛をつかまれ引き倒された。
「幸村…っ!やめてくれ」
恐怖と、戦で負った傷のせいでうまく動けぬ兼続は易々と幸村に押さえつけられてしまう。それに今の幸村は兼続に対する暴力に躊躇いがなく兼続が抵抗する度、何度も頬を張った、やがて兼続の気力が失せて抵抗を辞めるまで。
 その夜、幸村は罰するように兼続を抱いた。手首を縛りあげ、愛撫もせずに乾いた後孔へと尖った爪の伸びた指を突きたて、痛みに兼続が身を捩るとその指をさらに深くした。痛いと声をもらせば今度は幸村自身で兼続を貫き悲鳴を上げさせた。
兼続が意識を失うまでその夜の狂行は続いた。

――翌朝、目覚めた兼続は指一本動かす事ができなかった。下肢に受けた裂傷と、張られた頬は熱を持ってズキズキと痛み全身は泥沼に沈んでいるかのように重く、そして何より心がばらばらになりそうだった。
 受けた暴力への恐怖もあるが一番己の心を深く穿っているのは――どうしてあの時半蔵の名を叫んでしまったのだという後悔。幸村と半蔵の浅からぬ因縁と、幸村の己に対する長年の思いを考えれば絶対にあんな形で口に出して良い名ではなかった。

 ――どうして……。
 気がつけば頬に涙が伝っていた。

「あんたが泣かないでよ」
 突然降ってきたくにいちの声に兼続は驚いたが、泣き顔を隠す事もできず、またそんな気力もなくただ目を閉じた。
「すまぬが、一人にしてくれぬか」
「そういう訳にはいかないわ、私はあんたに言いたい事があるんだから」
 閉じていた瞳を少しだけ開いて、なら言えと視線で促す
「本当はあんたのその喉笛掻っ切って殺してやりたい程ムカついてるけど、幸村様の為に我慢するわ。でもね、これ以上幸村様を傷つけたら本当に許さないから」
「……私はどうすれば良いのだ、何ができる……幸村の為に」
「……っ!!」
 くのいちは激昂して兼続の衿をつかみ上げた。
「いい加減にして、何が幸村様の為によっ!自分の気持ち隠し通す気がないなら最初から曝け出してぶつかるのが相手への誠意ってもんじゃないの?一番身近に居たはずの人をこんな風に傷つけて、よく愛だ、義だなんて騒いでられたわね」
 衿をつかみがくがくと兼続を揺さぶりながらくのいちは叫ぶように言った
「このまままた傷つけるつもりなの?幸村様と……恋した人も。気づいてないなんていわないでよね。乙女じゃないんだから」
 吐き捨てるように言うとくのいちは褥に兼続を叩きつけるように離した。
「……いい加減に幸村様を解放してあげてよ、あんたから……」
 背を向けたくのいちの呟きはいつまでも兼続の脳裏にこだました