翳恋
八
――苦しい
『愛しています。あなたが欲しい、あなたの全てが』
――痛い、苦しい、熱い……
――だけど、もしこの身体をつき離せば、この瞳から目を反らせば、この子は一人でとても危険な所へ行ってしまう……
『愛しています、愛しています』
全身に痺れるような痛みが駆け抜ける感覚に兼続はハッと目を覚ました。だが意識がはっきりとしてくるにしたがってその感覚が現実のものではなかったのだと気づく。
随分と昔の夢を見ていたのだなと思うと同時にぼんやりと視界に入った見慣れぬ天井に兼続は眉を顰めた。
そう言えば己は幸村と話をしていて……、いや、あれも夢だったかと記憶を整理しようともう一度目を閉じた兼続の上に声が降ってきた
「お目覚めですか〜」
驚いて目を見開いた兼続をくのいちが視線の上三寸程の至近距離から覗き込んでいた
「くのいち……っ」
「幸村様にあんたが起きたら報告するように言われたんだけど……」
ぴょんと飛び離れたくのいちは兼続に背を向けてしばらく黙ったかと思うと、山でそうしたようにまた鋭く兼続を睨みつけた
「幸村様の事傷つけたら、私絶対許さないから」
「……」
「恋なんかしてないなら、身体なんかゆるすもんじゃないでしょ普通。不義を憎む直江兼続が聞いて呆れるわ」
くのいちがずっと己に浴びせてくる非難めいた視線はあの戦で江戸城に火を放ち、幸村の命を奪おうとした己の策、そして潔く死を選ばなかった武士としての兼続を糾弾しているのかと思っていた。だが思わぬ言葉がくのいちの口から出た事に兼続は混乱した。
「恋…だと?一体そなたは何を」
「わけわからないなんて顔しないでよ、本当腹が立つっ!」
兼続に分かるように話そうという気は毛頭ないらしく、ぴしゃりと叩きつけるように言うとくのいちは風のように去っていった。
――恋なんかしてないなら、身体なんかゆるすもんじゃないでしょ
くのいちの言葉を反芻した後、兼続は目覚める直前に見ていた夢の事を思い出した。随分と遠い過去のような気がする、―いや実際遠い過去なのだが。幸村に燃えるような情念をぶつけられどうして良いのかわからず、ただただ流されるままにその思いを受け止めるのに必死になっていた頃の事を。
『愛しています』
幸村はそう言った。兼続も幸村を愛していた、共に描いた理想を実現するための同士として、或いは兄弟のように。
それは兼続が三成や慶次に向ける思いと同じたぐいのものであった。だが幸村が兼続へ向ける思いはそうではなかった。
『愛しています』
兼続が抱く幸村への愛情とはあまりにも異質な、狂気すら宿した強い瞳の輝きで、幸村は兼続にせまりその身体を犯した。
兼続が最初に感じたのは恐怖だった。弟のように思っていた幸村に裏切られたという嫌悪さへ感じた。だが、直後それよりも、どこか危うさを秘めたこの子を己が突き放してしまえば何か取り返しのつかない事になるのではないかという不安が勝った。何故幸村がこのような形で己に執着するのかは分からなかった、だがこうしていなければならない、こうしていれば幸村は大丈夫なのではないだろうかと漠然と思った。
しかし、秀吉が病に倒れ天下が騒然としだすと、そんな風に二人が交わる事もなくなった。
関ヶ原以降は兼続は主家存続の為に忙殺され、敵同士となってしまった幸村の事を感傷まじりに思い出す事も少なくなっていた。
斥候から聞く真田の動向には己が抱かれていた頃に感じていたような幸村の不安定な要素を見出す事はなく、あの頃に感じていた事は杞憂であり、己の思いあがりであったと自嘲すると同時に安堵したりもしていた。
そんな昔日の思いを一巡していたところで障子が開いて、当の幸村が現れた。
「兼続殿」
兼続の顔を見ると同時に嬉しそうにその名を呼ぶと、駆け寄った幸村は兼続の手を握りしめた
「先ほどは失礼致しました、少し危険があったので急いでここまでお連れしました」
「危険?」
「不安そうな顔をしていらっしゃいます……。でも大丈夫ですから、あの村の事なら何も心配なさらないで下さい」
敵意の篭った目で半蔵と村の事を語る幸村を思い出し兼続の胸に不安が押し寄せてきた
「幸村その事だが……」
「ええ、始末をつけねばなりますまい。兼続殿、あそこで見聞きした事全て教えていただけませんか」
当然と言えば当然の事かもしれないが、幸村は服部半蔵をはじめとした徳川軍の落人が作った村を泰平を脅かす不穏因子だとしか考えておらず、表情が険しくなる。
兼続は焦った。あそこにはもう血なまぐさい事を求める者はいない。武士として―、という話をすれば確かに腹を切るべき者達なのかもしれないが、彼らがどれ程の苦しみを越えて生を選んだのか痛い程に分かる兼続には、幸村がしようとしている事を見過ごす事はできなかった。
「この様な勝手は通らぬのかもしれぬ、それでも……それでも、頼む。私の命はお前に預ける。極刑でも何でも受け入れる、だから……」
兼続は全てを語った。そして懇願した、どうか彼らの存在をお上に告げず、見逃して欲しいと。
幸村は終始しぶい顔をして兼続の言葉を聞いていたが、最後に一言わかりましたと言うとその日は兼続の元から静かに去っていった。