翳恋
七
「本っっ当、苦労したんだから〜。相変わらず半蔵の旦那ってば隙ってもんがないんだもん。気づかれないように文届けるだけで何日もくっちゃった」
呆然とする兼続の前に降り立ったくのいちは迷惑そうに兼続を一瞥するとそんな事を言った。
兼続の元に届けられた差出人不明の文には山中のとある場所に一人で来るようにと書かれていた。
半蔵が以前のように忍として行動する事はもうないが彼の五感が人並み外れている事は昔と変わりない。その半蔵に気づかれぬように己のもとに文を差し出す事ができる何者かの言を無視するのは危険だと判断し、兼続は文が指定するこの場所へ一人やってきたのだった。
「そなた幸村の……」
「まさか本当に生きてたなんてねぇ〜」
兼続の言葉を無視してくのいちは睨むようにもう一度兼続を見た
「死んでればよかったのに……」
「……」
聞かなければならない事が山程あるのに、何から口に出せばよいのかと戸惑っている兼続にぶっきらぼうな口調でくのいちは言った
「ついてきて」
「待て、どこへ行くのだ」
「いいから、黙ってついてきてっ」
不機嫌そうに兼続の質問を突っぱねたくのいちは森の奥へとずんずんと進んでいった。歩いているように見えるのに思いの外その足は速い。
あの大戦で負った怪我から兼続の右足は以前のように動かない。くのいちの後ろ姿を追うのに必死で四半刻もすれば自分がどこをどう進んでいるのか、どちらから来たのかも全くわからなくなっていた。そうして半刻程山中の悪路をくのいちの背を追い休む暇もなく歩き続けたが、随分先を行っていたその後姿をとうとう見失ってしまった。
「くのいちっ」
立ち止まって辺りを見回しながら兼続は叫んだ。直後、その背後でがさりと葉が擦れる音がした。驚いて振り向いた兼続はその視界に映った男の姿に息を飲んだ。男も兼続の姿を見て目を見開いていた、二人共時が止まったように身を固くしていたが先に口を開いたのは兼続の背後に現れた男の方だった。
「兼続殿――」
もう二度とその姿を見る事も、声を聞く事もないだろうと思っていた古き友、真田幸村の姿がそこにはあった。
「あなたは、本当に生きて……っ」
驚愕のあまり無意識に後ずさろうとする兼続に幸村は駆け寄り、その体を抱きしめた。
「兼続殿っ…、良かった」
涙まじりの掠れ声を必死に搾り出す幸村。息苦しさを感じる程きつく抱きしめる手から逃れようと兼続が身を捩ると、すみませんと身体を離し幸村は兼続の顔を覗き込んだ。その瞳は喜びに満ちていた。
しかし兼続には幸村と同じ気持ちで彼の顔を直視する事などできなかった。
――今更私がどの面をさげて幸村の前に……
翳る兼続の表情に気づいた幸村は大丈夫ですと力強く頷いて見せた。
「あなたがどんな気持ちであの戦に臨んだか、同じ武士として私とて理解しているつもりです。でも、もう何もかも終わった。そしてあなたはこうして生きている。だから私達はまた以前のように……」
この先の二人の関係に一体何を夢想しているのか、輝きを増す幸村の瞳。
幸村の顔を見た瞬間に兼続が感じたのはおめおめと生伸びた己を晒す羞恥心だったが、もう一度この歓喜に満ちた瞳に射抜かれて漠然とした別の不安が湧き上がってきた
「そんな事……」
「出来ます、公にはあなたは死んだ事になっているのだから。私が真田の忍に命じてあなたを探させたのです。私はあの焼け跡に戻ってあなたの亡骸を捜しました。どれも損傷が酷かったからどれが誰のものだとはわかりません。でも何故か思ったのです、ここに貴方の亡骸は無いと……。だから私は信じていました、あなたはどこかで生き延びていると。真田の忍以外にあなたが生きている事を知る者はおりません。もうこれからは政など関係なく、私達は共にある事ができるのです」
幸村は胸の奥に抱えていた思いを噴出させるように一気に捲し立てた。しかし、幸村が喋れば喋る程に兼続の中の不安ははっきりと形を帯びはじめる。旧友との再会を喜ぶ気持ちが不安に勝る事はなく、次に幸村の口から出た言葉にそれは決定的なものとなった。
「一体なんの策があってあなたを救出し、これまで捕らえていたのかは分かりませんが、此度の事のみは服部半蔵に感謝しています」
「そなた……、あの村の事を知って……」
蒼白になって震え声で尋ねる兼続に幸村は初めて表情を曇らせた
「奴等が一体何を企んでいるか、兼続殿からも落ち着いたらお話を伺いとうございます。やっと秀頼様の下築き上げられた泰平、乱す因子は消すまでです」
厳しい表情でそう言った後、幸村は再び笑顔を作った
「でも、もう兼続殿にはそのような事心配していただかなくても大丈夫です。私があなたを二度と危険な目に遭わぬ所へお連れしますから」
兼続は幸村の体を押し返すように離すとゆるゆると首を振った
「ならぬ幸村、私は……」
言いかけた兼続の項に白い影が飛び、ごつりと鈍い音をたてた。同時に兼続はガクリと膝をついてその場に倒れこんだ
「くのいちっ!兼続殿に何をする!」
「なんだか色々面倒な事になりそうだったから。とりあえず兼続さん連れて帰っちゃった方がいいと思いまして」
「何っ?!奴等私達がここに居る事に気付いているのか」
「ん〜、まぁそんな感じというかなんというか……」
言葉を濁すくのいちにはかまわず幸村は兼続を抱き上げると山道を駆け出した。
「こりゃ本当面倒な事になるなぁ。兼続さん死んでましたって言うより傷つくことになるかも……幸村様の悲しむ顔見たくないんだけど、主の命は絶対。忍って本当報われない」
落とされたくのいちの長嘆を聞いているのは山の木々だけだった。