翳恋
六
「兼続、飯の時間だ」
背後から声をかけられた兼続は草をひいていた手を止め空を仰いだ。涼しいうちに農作業を終えようと日の出と共に畑に入ったが夢中になっているうちに日が中天にかかっていた。
「この畝が終わったら行く」
振り返った兼続がそう応えると声をかけた男、服部半蔵は頷いて庵の中へと消えて行った。直後、
「飯だーっ!」
そう叫びながら兼続の脇を十程の歳の少女が駆け抜けて行った
「はなえ、女人がいつまでもそのような口のきき方をしておってはいかんぞ」
少女の背中に叱る口調で声をかけた兼続だったが、その言葉が耳に入っているのかいないのか振り向いて大きな笑顔を見せるとそのまま少女は庵の中へ走り込んでゆく。溜息をついて苦笑いを浮かべる兼続の横を今度は七つ程の少年が仏頂面で通り過ぎて行く
「あんなの女じゃねえやっ」
「なんだまたはなえに苛められておったのか?男子の癖になさけない」
少年は悔しそうに俯いた
「泣くな源之助、飯の後で絶対負けぬ喧嘩の仕方をおしえてやる」
「本当?!」
ぱっと明るくなった顔に笑顔で兼続が頷くとこちらも嬉しそうな足取りになって庵の方へと走って行った。
穏やかな風が吹きぬけ揺れる草木の音が涼を運んでくる、どこまでも平和な昼下がり。多くの犠牲を出した戦国最後の大戦から実に五年という月日が流れていた。
上杉を含む敗軍の兵や忍達、行き場を無くした戦傷者を救出した服部半蔵他伊賀の忍達は秀忠の最後の命を遂行すべく、この人里離れた山間の地に小さな村を作り、生活の基盤を築いていた。
兼続は半蔵とその配下であった隼、戦で忍だった両親をなくした姉弟のはなえと源之助という奇妙な五人組での生活を送っていた。馴染みのある上杉兵の誰かと暮らすか、妻を娶って所帯を持たないかと隼に勧められたが、それも考えておくと言っているうちに数ヶ月が過ぎ、一年、二年が過ぎいつの間にかこの生活は兼続にとって手放し難いものとなっていた。
「源之助、それ食べないなら私がもらうっ」
「あ、俺の好物!最後にとっておいたのに」
「こら、はなえ弟のものに手を出すな、行儀が悪いぞ!源之助もそれぐらいの事で泣くな」
昼餉の最中でも大人しくしている事のない子供達を叱るのは兼続の役目。相変わらず無口な半蔵はそのやり取りを微笑を浮かべて見ているのだった、もっとも半蔵を知らぬ者が見ればただの無表情に見えただろうが。
そんな風に昼間は賑やかな庵も、子供達が寝静まると途端に静かになる。居間で囲炉裏をはさんで座る兼続と半蔵、隼の間に会話というものは殆どない。
兼続は以前よりも無口になった。それは意に染まぬ臣従に心を硬くしていた頃の無口とは質の違うもの。
以前の兼続はとにかく自分の思いや理想を伝えたいという気持ちが溢れんばかりで多くを語ったものだった。だが今の兼続の心は凪いだ海のように穏やかで周りの人間に己というものを主張せずとも互いに通じ合い分かり合えるのだと感じていた。そんな風になれたのにはこの無口な服部半蔵という男の甘言を弄するではなく常に行動で人に手を差し伸べる真の優しさと底知れぬ忍耐が、死人のようだった―、いや死人などよりもよっぽど性質が悪いと自負するような大戦直後の兼続の心を泥沼から引きずり出したからだった。
あの服部半蔵を相手にそんな事を思う日がくるとは―、兼続は運命というものの不思議を思い半蔵の顔を見た。子供に玩具を作っていた半蔵が兼続の視線に気がついて顔をあげた。兼続は微笑んだ、半蔵も穏やかな表情を兼続に向ける。言葉が交わされる事はなくいつものように夜は静かに更けていくのだった。
しかし翌朝、兼続の枕元にそんな穏やかな日々を揺るがす文が届けられた―。