翳恋
四
不意に抱きしめられたあの夜から兼続は男の事を思っていた。
一体何者なのか、もう一人の男の言った痛みを分かつことできるとすればそれは自分だという意味は。しかし、つかまえて問いただしたい兼続の気持ちとは裏腹にあの夜以来男は現れなかった。
そんな物思いに耽っている間に今日も外光が赤く染まり始める刻限になっていた。
ぼんやりと水の中から外の世界を見ているような視界だが、色やものの輪郭をなんとなくとらえることができるようになったその目で外を眺めていると廊下の向こうから人の気配が近づいてきた。静かな足音がいつもの兼続の身の回りの世話をしている男だと知らせる。男は部屋に入り兼続の前に座ると小さく礼をして言った
「今日はあなたに会わせたい者がおります」
「私に?」
「ええ、今こちらに来ております」
「誰ですか」
「それは会えばおわかりに…」
男が言いかけたときに廊下の向こうでドタバタと音がしたかと思うと
「直江様っ!!」
感極まったという風な男の叫び声が聞こえた。
どうやら一人ではないらしく、数人の足音が騒々しく近づいてくると兼続の前でばたっと膝をついた
「直江様!本当に生きておられたっ」
男達は顔を畳につけるようにして、涙声で何度もそう言った
「そなた達は……。すまぬ、私の目はそなた達の顔が判別できる程見えておらぬのだ」
兼続がそう言うと一番近くに座った男が激しく首を振る気配があった
「たとえ、御目が見えておったとしても、私共のような下の者、直江様に覚えていただいておるとは思いませぬ。しかしこうして貴方様が生きておられるという事がわかっただけで私達はどれだけ救われたか……」
そこまで言うとまた男は顔を伏して泣いた
「そなた達は、もしや上杉の……」
「そうです。景勝様、上杉家亡き今生き延びる事になんの意味があろうかと、死ぬつもりでおりました。しかし貴方様が生きているからとここの者達の説得を受けて……」
江戸城落城後の苦境を語る男達の言葉一つ一つに兼続は優しく頷いていたが、不意に出た男の言葉に表情を強張らせた
「直江様も、ここで伊賀の生き残りと共に生きる事を決意されたと」
「そんな事は夢にも思っていなかった事ですが、貴方様がそう覚悟されたならば、私共も……」
男達が次々に口にする言葉に兼続は混乱した
――伊賀の生き残り―、共に生きるだと。
兼続は眩暈を覚え倒れそうになる体をなんとか片腕で支えた
「御気分が悪くなられましたか」
兼続の様子に口々に喋っていた男達は静まり返った
「そうだな、まだ直江殿も本調子ではない故、今日はそなた達ももう下がれ」
いつもの男がそう言うと上杉兵だったという男達は一人一人兼続を気遣うように声をかけ部屋を出ていった。部屋には男と兼続だけが残された。
眩暈が治まらぬままに兼続は男の居る方を睨みつけた
「私を利用するつもりか」
声には隠しようのない怒りが含まれる
「そなた達は伊賀の忍なのか」
「……」
「応えよっ!私を餌に上杉の生き残りの者達をそなたらの新たな戦の為に利用するつもりなのか」
「……」
暫くの沈黙の後、男は口を開いた
「私共は、秀忠様の最後のご命令を遂行するためにこうして生き延びております。そしてあなたにもその命に従っていただきとうございます」
兼続は体中の血が冷えていくような気がし、再び強い眩暈に襲われた。