翳恋

















「この分ならば、もう大丈夫そうです。しばらく圧迫してあったのと、まだ傷が完全に塞がりきっていないので瞼を動かすのに痛みもあるでしょうから視界がはっきりするにはもう少し時間がかかるかもしれませぬが」
 兼続の頭に巻かれた包帯を取り去った後、医師はいくらか目元の検分をしてそう言った。

「包帯はもう必要ないでしょう」
「そうか」
「では、私はこれで。今日は何かと忙しい故」
「ああ、すまぬ」

包帯を解かれた兼続の目は未だ以前のように開く事はないが、赤く透けた血の色が瞼の向こうには光が差しているのだと知らせる。

「直江殿、よかったですね。もう幾日かすれば目が見えるようになるでしょう」

あれ以来、自害だけは思いとどまった兼続だったが、主家が滅んで己だけが生きている事に未だ納得はできていない。ただひたすら献身的に兼続の世話をするこの者達の努力を無駄にする事に罪悪感を覚えた、それだけが兼続を生へと繋いでいる理由だった。

よかった――、などと明るい言葉で希望を与えようとするこの男の言動は兼続の気持ちを暗くさせる事にしかならなかった。

「何故です」
「?」
「何故私を生かす」
「……以前にも、申し上げました。ここにはあなたを必要としている者がいるのです」
「あなた方が何者か存じませぬが、今の私には何も……」

それ以上言葉をつむぐ事が出来ず兼続はうつむいた

「直江殿、私達にはあなたのお気持ちが痛い程分かるのです。それに……、頭領と痛みを分かつ事ができる者がいるとすれば、それはあなたかもしれぬと私は思っております。いずれ私たちの事もきちんとお話します故、今はもう少しお体を治す事をお考え下さい」

 この乱世を武士として生き抜いてきた兼続、それは残酷な別離や裏切りを山ほど見てきた。悲しみをこらえ歯を食いしばってそれらを乗り越えてきたのは己に亡き上杉謙信との誓いを果たす、何があろうと上杉を、義を、民を護るという信念があったからだ。
 武士ならば誰しも何かしらの信念を心に秘めているはず。それを失った時、武士は武士としては生きていけなくなる。だから、今こうして生きている者達に武士としての己の気持ちなど分かるはずなど無い、そんな苛立ちとやるせなさが込み上げてくる。だがこの者達にそれを伝えようと、また理解させようなどという気力が湧いてくるはずもなく兼続はただうなだれ深く溜息をついた。




――その夜、

  「食えるか」

 頭領と呼ばれている無口な男がいつものように兼続の前に食事を運んできて匙を差し出した。これまでは全く目が見えぬ故に食事も常に食べさせてもらう格好になっていた。そんな所にも兼続は居心地の悪さを感じていたので、ぼんやりとした視界ではあるものの匙を受け取った。
 その行動に少しは見えているのだなと男が安心したのもつかの間、兼続は腕をうまく動かせず食事を掬いあげようとした匙を取り落としてしまった

「っ……」

 布団を汚してしまったと、それを気にして身をよじればさらに盆から椀を落としてしまった。そんな些細な事でも今の兼続の心をかき乱すには十分だった

「こんな…っ、私が必要などと、武士の魂を失くした私が…。食事すらまともに出来ぬ私がか…?私の痛みがわかるなどとっ……、もうやめてくれぬか、この様な私が生きている意味などどこにあると言うのだ……」

 自嘲するように、しかしその語尾は聞き取れぬ程弱々しくなり、兼続は両の手で顔を覆った。情けない、悔しい、もどかしいと屈辱に耐えるように肩を震わせているところへ予想だにしない衝撃が走った。

 抱きしめられたのだ、傷に遠慮するように、だが力強く抱きしめられて兼続は身体に走った痛みよりも驚きに呼吸が止まる思いがした。

 何事かを口に出そうとしたのか男の息がかすかに耳元にかかったが男は結局何を口にするでもなく黙りこんでしまった。しかし、言葉よりもその掌が優しく語る、頭や背をなぞり――慰めたいのだと。そして兼続は気付いてしまった、この静寂の中で無ければ、あるいは己の視界がもっと明瞭であればそちらに気をとられて気付かないであろう程だっただろうが、男の体が僅かに震えている事に。


――痛みを分かつ事ができる者がいるとすれば……それはあなたかもしれぬ


 兼続はもう一人の男の言葉を思い出した。この男は一体……
 この男もまた己と同様の傷を抱えているというのだろうか。

「すまぬ」

 どれぐらいそうしていたのか、不意に男の身が離れて兼続も我に返った。男は汚れてしまった布団と盆を取り上げ持っていた手ぬぐいで兼続の着物に散った汚れを拭っている。

「あなたは……」

 それが独り言なのか、問いかけか兼続自信もわからなかったが、どちらにしても男は常の様子を取り戻し問いに答えが返る事はなく、静かな夜へと戻っていった。


 ただ兼続の背には男から伝わった暖かい熱がいつまでも残っていた。