翳恋
十二
半蔵は立ち止まって空を見上げた、先ほどまでは果てまで晴れわたっていた空に灰色の雲が覆いかぶさろうとしている。水分を帯びた土の匂いが雨の到来を告げている、山の天気は変わりやすい。
「兼続、雨が来る」
半蔵はずっと兼続の足を気遣ってゆっくりと歩いていたのだが、それでも今の兼続には長距離の移動はこたえる。肩を上下させて立ち止まったのをいい事になんとか呼吸を整えているという様だった。
「村まではまだ遠いのか」
「まだ二刻はかかる」
「雨宿りをしていては日が暮れてしまうな、走るか」
「いや、お前の足では無理だろう。もう少し先に洞窟がある、そこで朝を待とう」
「……すまぬ」
一瞬反論しようとした兼続だったが、夜の山は確かに危険で夜目の利く半蔵一人ならともかく今の己では足を引っ張ってしまう事になるだろうと思いなおし素直に半蔵の言葉に従った。
少し移動すると、そこには自然にできた岩屋があった。入り口は草木に覆われてこんな所にに大人二人が入れるのかと思われたが、中に入ってみると奥行きがあり意外と広かった。
なんとか雨に降り込められる前にそこについたが、その夜は嵐になった。外では轟々と風が鳴っている。お互いの声も聞こえない程の轟音と、冷たく硬い土の上だったが兼続は久方ぶりに心の底からの安堵感を味わい崩れるように深い眠りへと落ちていった。
どれぐらいの時がたったのだろう、次に兼続が目を覚ましたときは、完全に闇に閉ざされたと思った洞窟の中に柔らかな火が灯っていた。外からはしとしとと雨の降る音が聞こえているが、どうやら嵐は過ぎ去ったようだ。仄かに揺れる炎の向こう側に半蔵の顔がぼんやりと見える。昼間、緊張した空気の中に居た時は気づかなかったがその頬は心なしか肉が落ちやつれたように見える。
「すまぬ一人で眠ってしまった」
「構わん、まだ朝まで時間がある。もう少し眠れ」
半蔵は上体を起こそうとする兼続を止めようとしたが、眠気はゆっくりと去っていく気配がある。
「そなた、ずっと私を探しておったのか」
「ああ……。山犬か、熊に食われたかと思ってな、熊を沢山狩ったぞ」
それは冗談だったのか半蔵はくっくと喉を鳴らして笑った。帰ったらしばらくは熊鍋だぞと続けられた言葉に兼続が本当なのかと驚いた表情をすると半蔵はまた静かに笑った。からかわれた事に気づいてなんだとしかめっ面を作ったが、兼続も一緒に笑った。眠りに落ちるまで、ずっと張り詰めていた空気が穏やかに解かされる感覚に兼続は胸が温かくなるのを感じた。しかしそんな兼続とは裏腹に半蔵の顔からスッと笑いが消え瞳が翳った。暫く兼続をじっと見た後消え入りそうな声で半蔵が言った
「すまん兼続」
何に対しての侘びなのか、兼続には検討がつかず困惑した。
「何故、謝るのだ」
「お前を危険な目にあわせた」
「お前がそれを詫びるのは筋違いではないか、それに危険な目になど……」
「俺はお前が共に生きると誓った時からお前を護ると決めていた」
――何故そんな事を言うのだ、そんな事を言われると……
兼続は胸をギュッと押さえて、心の奥深くから暴れ出そうとする感情を閉じ込めようとした。
そんな兼続に気づいてか気づかずか、半蔵は兼続の手首ををとりあげるとまじまじと見つめた。そこには幸村に戒められ擦れた後がまだ僅かに残っている。あれ以降も、何をされたと聞かれる事はなかったが、半蔵はずっと兼続の身体に残った傷跡を気にしている様だった
「たいした事はない」
半蔵の腕を振り払うと兼続はその腕を袖の中に隠した。居心地が悪くなり黙って俯いてしまう
「お前は何を考えていた」
二言喋れば口数多い、三言喋れば饒舌と口数の少なさを兼続や子供達にまで冗談にされてしまう程の半蔵、普段ならここらで会話は終わるはずなのだが、今の半蔵は兼続との会話を終わらせる気はないらしい。
今長く喋れば余計な事を口走ってしまいそうだと兼続の心に不安がつきあげてくる。なぜあの時、もう一度眠ると言わなかったのかと後悔が胸をよぎるが今更どうしようもない。
「何を……とは?」
兼続は慎重に口を開いた。半蔵が何を確かめたいのか分からないが、のらりくらりと会話していつものような沈黙の夜に戻っていけばよいと思った。
「俺はお前が消えてから、気が狂いそうだった」
電撃が兼続の全身を走り抜けた。感情を表情に出す事もなければ口にする事もない男がこんなにも真っ直ぐに己を欲するような言葉をぶつけてくるとは思わなかった。それを歓喜する心と、このままでは自分を失ってしまうという恐怖が同時に兼続を襲った
「もっとお前の声を聞いておけばよかったと思った」
「……」
「触れておけばよかったと……」
「やめよっ」
兼続は半ば悲鳴のような声をあげて半蔵の言葉をさえぎり、聞きたくないという風に両の耳を塞いだ。子供っぽい所作だと思ったが今完全に半蔵からの言葉を遮断する方法はこれしかないと思った。
「それ以上言うな」
だが、兼続よりも幾分体格の小さいこの男のどこにこれほどの強力が隠されているのかという程の力で、半蔵はやすやすと兼続の両手をその耳から引き剥がした。
「幸村の元にいた時、何を考えていた」
黒曜石のような瞳が、射抜くように兼続を凝視している
――駄目だ
もう逃れられない、半蔵から、いや自分自身の感情から、そう思った兼続は観念したように震える口を開いた。
「……そなたに会いたいと思った。愛おしくてたまらぬと……」
それは熱烈な恋の告白のはずなのに、兼続の表情も、声もまるで咎人が己の犯した重罪を告白するかのように苦悩と悔恨に満ちていた。
そんな兼続の言葉を聞いた半蔵は押さえつけていた両の手首を離し、射抜くような視線を収めてふっと柔らかい表情になった。半蔵の心情を図りかねて兼続は眉をひそめた。
「兼続、お前はいつまで過去に生きる」
「え……」
「お前が治部や景勝、前田や幸村に対する罪悪感から、己を罰する為に俺への気持ちを封印し続けるならそれもよいと思っていた。お前の心がそれで少しでも安らぐならな……」
己ですら気づかないように、触らないようにと心の奥深くへ沈め閉じ込めていた思いを、ずっと前から当然知っていたと言わんばかりの半蔵の言葉に兼続は目を見開いた
「だが兼続、お前は俺を失った瞬間、今度は俺という過去に縛られて苦しんだ、違うか」
「……」
「兼続、もっと今を生きても良いのではないか。それがお前が別れなければならなかった者達への餞にはならぬか」
「そんな事……」
兼続は俯いた。己の思いが許されない理由を頭の中に箇条書きに書き連ねている自分が居るかと思えば、それを塗りつぶすように半蔵から愛されているという確信に狂喜する心が躍り出てくる。そんな己を悟られるのが恥ずかしかった。
兼続の様子を窺っていた半蔵は、声音をさらに優しくして兼続の頭を撫でながら言った
「実はな今俺が言った事はお前が消えてから俺が俺自身に言っていた事でもある。結論はお前にしか出せぬ事だ、もうこれ以上は何も言わん」
兼続ははっとした。
――そうだ、あの夜の闇の底、半蔵が震える手で私を抱きしめた時から、私達はずっと同じ気持ちを共有してきたのではないか――
己の思い悩む事に必死で目の前の男の気持ちを蔑ろにしていた事に気付いた。その男の強靭な精神力に甘えて自分の事ばかり考える事が許されていたのだと知った。
「半蔵……」
兼続は迷いを捨てる事を決意した。
手を伸ばせば、もうそこには己の居るべき場所があった。身を寄せ合うとどちらからともなく口付けが交わされた。背に回された手は二度と離さぬと言うように互いに硬く抱き合った。
暫くお互いの鼓動を確かめるように息を潜めて抱き合っていた二人の耳に小鳥のさえずりが届いた。朝がきたのだ。兼続の身体をそっと離すと立ち上がった半蔵は外へと兼続を促した。
岩屋の外へ出た兼続は優しい朝の光に目を細めた。
「兼続、帰ろう」
朝日の中に揺れる優しい顔に、兼続は静かに頷いた。
◆やっと完結させる事ができました〜。最後まで読んで下さった方、応援メッセージを下さった方、本当にありがとうございました。実は随分前から殆ど完成の状態まで仕上げていたのですが、何分文章を書く事になれてなくてどうしようもなくもたもたと細かい事とか表現をどうしたらいいのかわからずうpできませんでした。結局完成作品もどうにもなってないのですが(汗) 実は幸兼ENDと二通りのエンディングを考えていたのですが、書いてて自分の妄想なのに半兼に萌えてしまって幸兼エンドはバッドエンドしか思いつかず挫折しました^^;
幸村の心情があんまり丁寧に書けず、読んでくださってる方には「え?」という展開かな?と思ったので番外で幸村サイドの話は書きたいなぁ〜とかも思っていたのですが、それも力つきました。年内に仕上げたいという気持ちがあったりで……w 幸村は兼続が思っている以上に実はちゃんと兼続の感情とか分かってて全然自分を恋愛対象として見てないくせに、全く自分を拒否しない兼続に実はずっとやきもきしてたんだと思います。本当は最初っから突っぱねられたら素直に納得するつもりでいたのに、兼続の間違った優しさが幸村を凶暴にしてたんだと思います。そんな兼続でも、やっぱり幸村は好きで好きで仕方ないから半蔵と去っていった後もあの山が人の目につかないようにこっそり護ってたりしたんだと思う。やっぱり幸兼は良いw
半蔵はもうね、全然大人で兼続とかすぐいちころになると思うのです(私の文章ではそういう所表現できないんですがね)。立場上敵だったから人格とか見ようともしてなかったけどねってだけで。兼続って敵って決めたらその人の人格とか無視するような子供っぽいところがありそう。とか色々考えてたら、なんかかっこいい兼続受けを書きたいのに、実は兼続が一番精神的に子供っぽくて駄目駄目ではないか……といつものような結論に至ってしまいました……。 でも今回の長編は妄想は楽しかったです。書くのは苦痛でしたがw これはプロットって事で、文章上手な人に書き直してもらいたいぐらいですハハハ……
2013.12.27