翳恋















 兼続は蝋燭の薄明かりの中で己の掌を見ていた。
 その右手にはおそらく一生消えぬであろう深い傷跡が残っている。そして服部半蔵の両手にも同じような傷が残っている事を思い出していた。

 もう死ぬ事は諦めよう、伊賀の忍に命を救われ幾度か試みた自害も阻止され、生き残った上杉兵に会った後そう心に決めたはずの兼続だったが、その決意は月の満ち欠けにも容易に左右される程に頼りないものだった。
 ある満月の夜兼続は、再び憂悶に耐えかねて懐刀を取り出すと殆ど発作的とも言える勢いで己の腹を突こうとした。だがその刀が兼続の腹に届く事はなかった。驚いて目を開いた兼続の前に刃を握り締める半蔵の姿が映った。赤い雫が半蔵の手から滴り落ちるのを見て兼続は追い詰められた気持ちになった。また人を傷つけてしまった、これ以上誰にも迷惑をかけぬように早く死ななければと、狂ったように手に力を込め刃を取り替えそうとした。しかし半蔵の手はピクリとも動かず兼続の手だけが前にすべりだし半蔵と同じように刃を握る形になった。
 半蔵は兼続の腕を叩いて懐刀を落とすと血まみれの手で兼続の頬を包み己の方へと向かせた。戦の中で人を屠るときでさへゆらがない半蔵の瞳が水面に映る月のように揺らめいていた。
「死ぬな……、生きろ兼続」
 兼続はただ泣いた。多分半蔵も泣いていたのだと後になって思った。
 血まみれになった二人を隼が見つけ慌てて医師を呼びに走るまで二人は震えながら抱き合っていた。
 兼続が今度こそ本当に死ぬ事を諦めた―、いや生きようと決めた夜の事だった。

――会いたい、

 あの夜に交じり合う血の中で重ね合わせた手の温度を思い出すと胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 そうだ、本当はずっと前から気づいていたのだ、くのいちに言われなくとも。
 あの男を、服部半蔵を愛していると。それは兼続が今までに誰かに対して抱いたどの愛情とも違う種類の恋慕だと。だけど、己の心がそこだけは超えてはならぬ一線だと言っていた。永遠にその気持ちを封印する事が、主家も護れず己の信念も貫けず友の心を裏切った己へと科した罰だと。

――だが結局私は幸村をあんな風に傷つけてしまった……

 これからどうすればよいのかと暗澹とした気持ちになるばかりだった。


 幸村はあれから数日兼続の前に現れなかったが、次に兼続が居る室にやってきた時にはいつもの幸村に戻っていた。
「兼続殿はあの後、天下がどのようになっているかご存知ないでしょう」
 そう言って今、京の都や大坂の町がどのように発展したのか、真田の領地がどこになったのかを嬉々として兼続に説明した。
 兼続が罪悪感と憐憫の情の篭った視線を向けている事には気づいていないのか、気づかぬふりをしているのか
「兼続殿、越後に帰りたくはありませぬか?今あそこは真田の食邑です。お望みであればあなたをお連れする事ができます。公にあなたを城に置いて、というのは無理ですが、それでも……」
「幸村」
「……またそんな顔をしてらっしゃる」
困ったような笑みを浮かべ、幸村は俯き加減になった
「もう私は越後には帰らぬよ」
「では、米沢ですか?どこか他に行きたい地があるのですか」
幸村は俯いたまま、だが声色だけは明るくこたえた
「幸村、私が帰りたい場所はもう一つしかないのだよ」
「……」
 暫くの沈黙が流れた後幸村が顔を上げた。
「五年前……、もし五年前に私があなたをあの戦場から連れ出していれば、あなたは私のそばに居てくれましたか」
「……その質問には何の意味もないよ、幸村。時は戻らない」
 兼続はあの夜幸村が見せた狂気を思い出していた。もし洗いざらい本当の気持ちを喋れば幸村は己を殺す事だってありえる、それ程幸村の感情の乱れは激しいものだった。
 しかしそれは初めて会った時から幸村の中に燻っていた不安定な要素がやっと顕在化したというだけで、それに関しては兼続はさほど驚かなかった。だから、本当の気持ちを喋って幸村が己を許せぬ、殺したいと思うのならば、それを受け入れる事が今、兼続にとって幸村の為にできる唯一の事だと思い定めていた。
 感情の読めない表情で幸村は静かに口を開いた
「愛しているのですか」
 誰を―とは言わない。だがそこに形を帯びるのは幸村にとっても兼続にとっても一人の男の姿のみ。
 兼続は静かに頷いた。
「――だが、約束したとおりこの命はお前にあずける」
 ドンと幸村の拳が畳に打ち付けられた。暫く俯いて怒りの為か泣いているのか震えていた幸村だったが顔を上げて言った
「兼続殿、あまり私を見くびらないで下さい」