翳恋
壱
※武蔵ストーリーの江戸城落城後。幸兼前提の兼受け話です。
――ここは一体どこなのだろう……
真っ暗な闇の中、兼続は一人彷徨っていた。
己が立っているのか、座っているのか、寝ているのか、宙に浮いているのか、どこにどういう風に存在しているのかも分からずただ暗闇の中、出口を求めていた。
もうどれ程こうしているのか分からない、随分長い時のような気もするし、ついさっきこの闇に放り込まれたような気もする……
そんな事を思っていると、遠くの方で何かちらつく赤い光のようなものが目に入った。歩くように、泳ぐようにその方向に必死に体を向かわせる兼続、だんだんと光に近づいていく。
――もう少しだ……
そう思って手を伸ばした瞬間、兼続の全身を焼ける様な痛みが貫いた
「ッ……!」
声を出そうとしたのだがそれもままならず、体の動く箇所を必死で蠢かせた。しかし、相変わらず視界は真っ暗なままだ。そこへ
「…お気づきになられましたか?」
聞き覚えの無い声が耳に入る。
体は相変わらず焼けるように熱く、痛みでうまく動かす事はかなわない、もう一度声を発しようとしたが、喉の奥の方から掠れた空気の抜けるような音が出ただけだった。そして、痛みを感じると同時に先ほどまでの浮遊しているような感覚は無くなり、己は布団の上に寝かされているのだと認識した。
「意識が戻られておるのなら、お聞き下さい。今しばらく目は開けられぬかと思いますが、医師の見立てによりますと眼球には大きな傷は負っておりませぬゆえご心配めされるな。それから、まだ体は無理に動かしてはなりませぬ、傷が塞がっておりませぬ故。今しばらく何も考えずに休まれよ」
聞き覚えの無い声の主は労わるように、ゆっくりとそう話すと立ち上がりどこかへ行ってしまったようだった。
兼続は今の言葉に自分のおかれている状況を把握しようと思考をめぐらせた。
どうやら己は酷い怪我をおっていて誰やら知らぬ者に世話になっているようだ、視界が真っ暗なのは目の周辺に傷を負ったから。
戦か――、
はて、どんな戦に身をおいていただろう、そう思ったところで師である謙信の横で馬をひいていた事を思い出した。しかし、それはなんだか遠い昔のような気がする。そうだ、親友であった三成が京で斬首されたのだ、師の謙信と共に戦った戦などもう何十年も前の事。
混乱する記憶の中、ふと悲壮な表情で兼続を見つめる顔が浮かぶ
『許さぬぞ兼続……そのような策』
それはずっと寄り添って兄弟のように時を過ごした主景勝の顔。
ああ、そうだと兼続は燃える赤い城を思い出した。
天下は家康の下に落ち着くのだろうと誰もが思っていた中、豊臣が最後の力を振り絞り挙兵した。無謀な、と皆が思い油断した。
豊臣軍の指揮をとったのは兼続の古き友真田幸村だった。徳川の、いや戦に参加した全ての者が思いもよらぬような策をたてて幸村は新たな友、宮本武蔵と江戸へと攻めよせた。予想もしなかった事態に徳川軍は大混乱に陥り、戦況はあっという間に五分五分という所にまで持ち込まれてしまった。
そんな中兼続は家康と秀忠の前に罷り出て江戸城に火をかける策を進言した。景勝は随分と反対をしていたが、徳川家への忠誠を示し幸村を止める為にはこれしか無い、そしてそれが出来るのは己だけなのだと景勝を説き伏せた。兼続の武士としての最後の覚悟と忠心に景勝も頷かざるを得なかった。
そして紅蓮に染まる城内で兼続はかつての友であった真田幸村と対峙した。
――共に果てよう……
そう言って剣を構えた兼続を前にしても、幸村は戸惑っていた。その戸惑いを払拭させるべく兼続は本気で幸村に切りかかった。そうすると普段の武士の顔を、鋭い眼光を失った幸村が子供の様に泣きながら槍を振るってきた
それから……
そこまでを思い出し、兼続は絶望した。己はまた生きのびてしまったのかと。
関が原以降、兼続は多くのものを失い、そして重き荷を負う事となった。しかしそれは全て自らが選んだ道の結果であり泣いても叫んでも現実が変わる事などはなく、ただ静かに受け止め、受け入れるしかなかった。己の判断の為に民を、主を苦しめる事になったのだ弱音を吐く事など許されぬ、その思いでひたすらにあらゆる屈辱に耐えてきた。
今回の江戸城での作戦は、もちろん第一に主家の為、そして民の為、徳川の為であったものの、兼続の心の中には死に臨むものの悲壮な決意というよりも安堵感があった。これで何もかも終わるのだ、荷を降ろす事が出来るのだと。逃げるように死を選ぶ己をずるいと少し後ろめたい気持ちにもなったが、疲れ果てた心はもう良いであろうと己を慰めていた。
だが、天はどこまでも過酷に兼続に生きる道を与える。
目の端がジリリと痛んだ。涙が傷口を焼いているのだろうか。
少しだけの思考に兼続はとてつもない疲労感を覚え、意識は再び深い闇の中へと落ちていった。
唇に幾分か己のものより温度の低いかさついた唇が触れる。それはやんわりと力の抜けた兼続の唇を押し開けた、そしてゆっくりと注がれる液体、苦い味が舌に広がり、喉に落ちててゆく。
ここ数日そうされる度に兼続は目を覚まし、「まだ」生きている己に落胆していた。こんなにも体中が痛むのだ、どうせならこの傷が膿んで体を腐らせてくれたらよいのにと自棄な気持ちになる。
だが、そんな兼続にも一つだけ気がかりな事があった、生きて確かめたいと思う事が。
なかなかに喉や体が思うように動いてくれず幾日かはもどかしく過ぎていったが、兼続はこの日なんとか聞きたい事があるのだと、己の世話をする者の袖をひいた。
どうやら、この人物は最初に語りかけてきた者とは別の者の様で、兼続に対して言葉を発してきた事はない。兼続の目も未だ当てられた布が取れぬ状態で気配でしかこの者を感じる事ができない。
ひかれた袖に、動きは止まった様子だが、向こうから何かを口にしそうな雰囲気は無く兼続はなんとか喉を震わせ声を出した。
「か…げかつ、様は…、う…すぎ…の…」
それだけ言うのが精一杯で兼続は少し息を乱した。苦しげに胸を上下させる兼続の頬を撫でるように指が滑らされた。優しい動きだった。しかし望む答えは与えられず低い声がただ、眠れと告げた後去って行った。